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正しさと弱さと

by lazy_planet
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これからの正義のはなし

少し前に、マイケル・サンデルの「これからの正義のはなしをしよう」という本がベストセラーになった。
決して簡単な本ではないが、これまでの正義論についての系統だてたまとめと、ジョン・ロールズというリベラリズムの正義論への批判、そして自身の正義論へと話をつなげていく構成になっている。

アメリカでは、トランプ氏が大統領になる、ということに多くの知識人が戸惑いを感じている。いわゆるポリティカル・コネクトネス(ポリコレ)への反発だ、という指摘もある。そのまま訳すると、「政治的な正しさ」であるこの単語は、「差別などをしない中立的な立場」を表現している。

そうした立場で物事をとらえ、共通の価値観とすること。

それは、一見すると誰も排除しない、誰も偏見を持たない正しさにみえる。偏見に貶められてきた人々を守るためのものであり、差別の暴力に対抗するものだ、と。

しかし、ときに正論は人を窮屈がらせ、正しさについていけない弱者を振り落とし、見下してしまう。「正しさ」には、勝つことができない。ひとたび、「悪者」にされてしまえば、次々に人は正義の名のもとに避難する。

その正しさが行き過ぎると、「悪者」にされた人々は排斥される。

そしてバックラッシュ(反発)が起こる。


これまでの正義、これからの正義。ここ最近の出来事を見ていて、またこうした問題をとらえなおしてみたい、と思った。

正しいこと、だけでは救えないものがある。弱さや脆さ、人の醜さや憎しみ、それらをケアする仕組みがなければ、正しさの名の元に辛い思いをする人が現れてしまう。


そんな正義ってどんなものだろうか?


もうひとつの声

キャロル・ギリガンというフェミニズム研究者がいる。

彼女は、正しさだけでは掬い取れない弱さを、「もうひとつの声」と表現した。主体的で自立した個人の合理的な判断による正しさとは別の、割り切れない曖昧さや対立、ジレンマに向き合うこと。人と人とのあいだにあるものに目をむけること。関係性に配慮すること。
そうした視点を正しさのなかに取り入れることが、必要なのだと主張した。そして、それを「ケアの倫理」として定義づけた。

フェミニズムの文脈でいえば、そうしたケアの倫理は、男性的な正義のなかで重視されないまま、価値を認められない存在だった。だからこそ、光を当てた。

フェミニズムは、男女すべて平等に一緒に扱え、という主張ではない。
男女の違いは認めながらも、女性が抑圧されてきた過去を見つめ、男性優位に作られた仕組みを変えていこう、という主張だ。

ランドセルが同じ色でなくてもいい。男女関係なく、赤や緑、黄や紫、どんな色でも自由に選ぼう、ということだと、僕は解釈している。


「ケアの倫理」は、弱さに目をむける。耳を傾ける。
それは、道徳的な正しさ、社会的な正義の視点によって、一般化された問題をもう一度個別の問題として捉えなおしてくれる。
全てを中立化する正義は、個別の事情を顧みない。
でも、生活に根差した日常のなかで、複雑な関係性をもって人は生きている。
一般的に「正しい」ことでも、それを認めることができないときもある。人の持つ感情は曖昧で、間違えうるものだから。

感情を排した合理的な正しさには無い優しさがケアの倫理にはある。
だから、僕はこの「もうひとつの声」が好きだ。


弱さに寄り添う

「ケア」という言葉は、どこか馴染みのない言葉だと思う。看護師や介護士、育児中の親などの特定の職種、場面でしか用いられないものだ、と。

でも、正論一辺倒で誰かが誰かを叩いているとき、正しさの前に何も言えずうつむく人を見たとき、お互いの正論をぶつけ合っているとき、ふとその人の持つ弱さや自分の中にある弱さに寄り添ってみることが必要なんじゃないかと思う。

それは、日常のどんなときでも起こりうることだ。

ポリティカル・コネクトネスを主張することは、しばしば「ポリコレ棍棒」と揶揄されてしまう。
もっと、穏やかに話をしてみたい。

どうしてそう考えるようになったのか。
どんな根拠を見て、何を思ったのか。
相手の主張をどう思っていて、どう感じたのか。
一つの事例だけで、全てを判断していないか。
一般的な解釈だけで、個別の事案を片づけていないか。

そうした対話を繰り返していくなかで、もうひとつの答えを見つける、あるいは答えのないまま曖昧なものとしてそれに寄り添っていく。

そんなふうに、正しさと、弱さと向き合いたい。




lazy_planet
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